伯爵令嬢エレノアは、王太子の婚約者として十年を過ごしてきた。
けれど婚約発表の直前、父と王太子から告げられる。
「婚約者の座だけでなく、名前も妹に譲ってほしい」
この国では、貴族の名前には祝福・契約・家系の力が結ばれている。
王太子妃に必要なのは、妹リリアではなく、聖女名を持つ“エレノア”だった。
前世で戸籍窓口に勤めていた記憶を持つエレノアは知っている。
名前は、人を社会につなぐものだ。奪われていいものではない。
だから彼女は、名譲りの書類ではなく、家系図から自分を消す《抹名届》に署名する。
その瞬間、ベルレイン伯爵家の長女エレノアは存在しなかったことになった。
同時に、彼女がその名で結んでいた王宮の祝福、孤児院の配給名簿、北門の守護契約、妹を飾っていた家の威信も、すべて白紙へ戻っていく。
名前を失った彼女は、下町で“リネア”という新しい名を選ぶ。
そして、消えた名前を管理する名簿院の公爵ノアと出会い、誰かの居場所を守る仕事を始める。
一方、王宮はようやく気づく。
忘れてしまった令嬢こそが、国の大事な縁を静かに結んでいたのだと。